Shingo Tokihiroのおしゃれ旅情

第三十四回
見えない道と信じることの道しるべ
京都・横浜・宇部・春川(韓国)・下関

冷たい時雨に閉じ込められた日の翌日は青空でした。10月から11月3日の文化の日まで、二つの講演会と三つの舞台をこなしてきました。約一ヶ月の時間は、霧の中を飛ぶように過ごしました。それは、私にとって半透明の繭の中にいた期間だったのかもしれません。今はその殻を抜けて自由に空を飛ぶための翼の乾くのを待っている状態です。

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京都・澄瑠璃公園より
一年一度。四回目の澄瑠璃の舞台は<秋風招欣 天地彩祭>がテーマ。今回は私が構成と演出を担当して、舞台に華麗な衣装をオブジェの如く飾りつけ、色彩に満ちた衣装をもって燃え上がるような紅葉の世界を中心に、稔りの季節の歓びを創りあげようとした。当日は雨、思えば澄瑠璃の公演は雨に降られることが多かった。私の夢は回を重ねるごとに人々の噂になり観客も増えてゆき、メンバーたちも、さらにこの笛と舞いと衣装をもって新しい創作の可能性に挑戦できるはずだった。が、結果は観客の動員に失敗。数少ない観客を前に私自身から力が抜けていくのを止めることができなかった。経済的なことも含め、プロデュースに対する認識の低さが招く悲惨な現実を嫌というほど思い知らされた公演となった。3年の間に変化したメンバーの意識の違いも大きかった。なんだか、同好会の発表会みたいな様相を呈している状態に自分自身が耐えられなくなり、この会の再考を提案。手元には四回分の資料が残っている。公演の夜、開場ぎりぎりまで会場前の暗い路地にチラシを持って立ちながら見た流れ行く黒雲と見え隠れする大きな月だけが、この公演の思い出となっている。<もっと、上に、もっと上に>と心の中で叫んでいた。

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横浜市民プラザでディスプレイされたコスチューム
久しぶりの公演依頼は横浜市民プラザからだった。ステージに衣装をディスプレイし、公演のDVDと話。私はいつもステージに立った瞬間にどんな話をするのかを決めている。あらかじめ段取りを決めるのは苦手。それはコスチュームをデザインする時と似ている。布を見る、触る。或いは白い紙を見る。その時に現われるデザインを創る。公演で緊張することがない。自然体。もちろん、京都のことがあり、聴衆が集まってくれるのだろうかという心配はあったけれど。結局300人は集まってくれたという。主催者からは「普段の講演会とは趣が違っていて興味深かった」との感想。約一年ぶりの公演だったが気持ちよくできた理由は、優秀なスタッフと何よりも聴衆の関心度の高さだった。「仕事には命を賭けている」「美の力は人間性を高めること」など、てらいもなく語っている私は傲慢だろうか。しかし、実感なのだから。後日、この公演に参加した人がご自身のブログに衣装デザイナーという仕事と時広の独特の雰囲気を書き込んでおられた。公演後の懇親会で、市民プラザの理事の方たちとリラックスした雰囲気での談笑。眼下に広がる横浜の夜景が私に勇気を与えてくれていた。その夜も雨であったが、大きな窓の雨粒は光のモザイクのように煌いていた。

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80歳の母と4歳の子
地元のNPOの招きで50年にして初めての故郷での講演会。少しでも多くの方たちに聴いて頂きたいということで、母校をまわったり、同窓生たちにお願いしたりした。同時に11月の国民文化祭でのステージパフォーマンスの紹介も兼ねることに。フロンティア大学の教室を借りての講演会だった。いつも参加者は50人前後といことだが、「時広さんは地元だからもっと呼べますよね。」と言われ、「でも、故郷はなれて32年ですからね」とやんわりと逃げる。ここでもやはり動員なんだなあと、ノルマのような思いが心を暗くする。結果は100人近い聴衆が集まった。そこにはお客さまや母の姿も。母校は一部の学生の授業ということで動員をしていただいた。テーマは「たたずまいについて」。ところが話はプロとしてこの道で生きていこうとしたら、学生時代に思っていたほど甘くないこと。ただ好きなのか、それとも愛しているのかといった先輩としての話になっていったのだった。未来を担う若者達に自分が言えること。衣装デザイナンを生業とし、天職としているものが何を考え、迷った時なにを基準に解決口を見つけることができたかなどを、するすると話していく。故郷の講演を無事に終え、実家での夜。「どうでしたか?」との私の質問に、母は「良かったよ」のひと言。子としてほんのほんの少し恩返しができたかと全てのものに感謝する。宇部を発つ朝、見れば、七色の虹がまさしく輝く青空に橋をかける瞬間に立ち会うことになるのだった。

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春川市は日本では忠孝の士、申将軍の墓陵があることよりも、「冬のソナタ」のロケ地で知られているかもしれない。今年の2月にこの申将軍の慰霊のための、パフォーマンスをやりたい。その際、衣装は時広に頼みたいという依頼があり。紆余曲折をえて、私たちは韓国のこの地を訪れた。結果から言えば舞台は成功した。だが、観客は予想の10分の1にも満たなかった。まるで、何かに憑かれているのではないかと思うほど、舞台と観客動員のギャップがどこまでもついてくる。申氏の側から「もっと早く知らせてくれたら、聞いたのが3日前だから、人を集めるのが難しい。」。なぜ?私たちは何ヶ月も前から練習していたのに。口惜しさと落胆、それから、気をとりなすことにエネルギーを費やしていく。どうして、こんなことになるのだろう。そこには、やれたことだけで満足していたこれまでの自分はいなかった。より理想の状況にもってゆき、もっと自分達の実力を発揮して多くの人々に影響を与えたいというこだわりを持った自分がいるのだった。有名になりたいではなく、本当の意味でプロ意識をもった人間との仕事がしたいという欲があった。自分のなかで何かが変わってきているそう思った。

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藍染の滝を背景に国民文化祭・山口のステージパフォーマンスに出品したドレス
国民文化祭2006・山口。美術工芸部門(下関市)のオープニングを飾るステージパフォーマンス「命の献華」のゲネプロは本番前日の11月2日。会場は下関市立美術館、吹き抜けのエントランス《光庭》。本番当日は工芸展のオープニングがあるため、リハーサルはできない。この日初めて会う出演者もいる。正直私はイライラしていた。出演者は全員で39名。子どものダンサー達、弦楽四重奏、声楽、朗読、市民モデル、プロのモデルに舞踏家にダンサー、謡曲の舞い手と謡い方。裏のスタッフに至っては延べ100人をこえる。全体の構成と演出を依頼されたこのパフォーマンスは、単に美術工芸展のオープニングセレモニーではなく、過去・現在・未来にわたる芸術そのものを称える内容にしたいと願ったのは自分であった。韓国でのオーガナイズの悪さに嫌気がさして、気持ちの切替ができないままの山口入りだった。全体の構成がわかる人間は私一人だった。そして、孤独だった。本当にうまくいくのだろうか。初めての顔合わせの時に「私は自分の手がけたパフォーマンスで、失敗したことがありません」と断言していた。実際そうだった。観客がこないときも「もったいない、もっと沢山の人たちに観てもらいたかった」と言われてきた。パフォーマンスはうまくいくのか、人がくるのか。失敗したらどうなる?どうでもいいことが私の心を曇らせる。コミュニケーションもとってない人たちにどう指導することができる?そもそもプライドの高いアーティストたちが初対面の私の演出を素直にきくの?私は誰もいない楽屋で、自分のこのパフォーマンスに始める動機を思い返してみた。どこかに私心がなかったか。美には力があると信じたかった。

それぞれのパート練習を終え、夜六時半。一回限りの全体リハーサルが始まった。不思議にスムーズに進行していく。出演者達は自分達が参加するパフォーマンスの全体像を始めて目の当たりにしてく。空気がやわらかくなり、光を帯びてくるのがわかる。スタッフたちが「ほんと、なんだかスーッとやれましたね」という。私にも不思議だった。命の染料といわれる藍の染めの作品(染色家:飴村秀子氏を始め、高校生たちの染めた布などをコスチュームにした)を中心として文学、美術、音楽、ダンスを始めとする芸術の全ての分野を象徴する人物達が登場し、演奏し、踊り、舞い、歌う。最後には芸術の殿堂が立ち現われて美の女神が降臨し、芸術を愛する人々を祝福する構成。ラストシーンは観客も出演者もスタッフも胸に込み上げてくものがあったに違いない。ある来場者が「品格のあるステージでした」と感想を述べたと聞く。

スタッフも出演者も全てが心満たされ、参加できたことを喜んだとの後日談。関わった全ての人びとに物に、こころに、何よりも美の神に深く感謝した。私はそのきっかけを創ったに過ぎない。一連の迷いと悩みの旅の果てに用意されていたのは、清清しい慰めと一人ではないという事実だった。この日、来場者は1300人を数えた。

翌日、久しぶりに母親と家族で遊園地に遊ぶ。小春日和の陽射しがボートのつくりだす波に戯れて、平和な風のリボンが見えるような昼下がり、意味もなく微笑みが浮かぶ青い空でした。

(神帰月 東京)